私の名刺代わりに、一応の専門分野であるスポーツビジネスのことを知ってもらうのが良いのではと思い、これまでスポーツビジネスの社会的価値について書いてみました。
今日はこれに関連して、スポーツとアートの作り出す「感動」について、異なった視点から考えてみます。
実は私はスポーツの作り出す開放感、感動、一体感などに、ある相対的な、やや冷静な認識と感覚を持っています。そしてそれは私自身が愛するロック、映画、などのそれに対しても同じです。ロックフェスティバルで踊りまくり、また映画館の出口で「感動しました!!!」と興奮してる人々。こういう姿になんとも言えない、「これでいいのか?」といういやーな感じを持ってしまうのです。
私自身ロックバンド経験者として、数十回のライブで観客の熱狂を作り出す喜びを経験し、一方で観衆として、イギ―ポップ(最高です!!)の来日コンサートにおいてステージ上に駆け上がるという美しい暴挙を働いた身として、その熱狂、感動は今も変わることはありません。
しかしそれでもそれらの熱狂について「それは単純にいうと脱自の状態、他者との同化の中で生じている、理性を麻痺させるファシズム的熱狂の要素がなくはない」(多木 浩二「スポーツを考える」)という様な冷めた認識を持つことは、絶対にに必要なことではないでしょうか。
もし本当にスポーツやアートを愛し続け、その愛するものの世界観や価値観を共有したいと思い、自分の人生や日常の生活を重ね合わせ、少しでもその高みへ近づきたいと願うならば・・・。
またその社会的な有用性を信じ、その継続や発展に関わろうとするならば。
それは批評性を持つということに他なりません。批評性を持つことは決してその対象への純粋な愛情を失うことではなく、むしろそれを強く持ち続ける力となる、ということは私の人生が証明しています、と言ってしまいます。(こういうことは年取ったやつにだけ言えるんだ、と今気付きました)
「心はいつまでもロック少年」という言葉のうす汚なさ、かっこ悪さ、死んでほしい感じ、解ってない感じ。
感動を、熱狂を、思い出にするな!!。しないためには、その心の奥をのぞき続けるしかないのです。
イギ―ポップ&ストゥージズ「ファンハウス」
ロックのすべてがあり、他の何もないレコード
POSTED BY:
HIKARU MACHIDA/町田光
NFL JAPAN 代表取締役社長 立命館大学客員教授 早稲田大学講師
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