- RITO MIURA 三浦鯉登
作曲家・ミュージシャン・昭和歌謡研究家
- ありとあらゆる音楽を対象に活動を続けるプロ・ミュージシャン。ポピュラーな洋楽・邦楽はもちろん、民謡・演歌・軍歌・民族音楽・ミュージカル・オペラ、とりわけ昭和歌謡にはずば抜けて造詣が深い。自らも美川憲一やちあきなおみなどを変装して歌うエンターティナーである。
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「King of Kings」殿さまキングス2014.06.13
1973年・昭和48年のNo.1ヒット曲、殿さまキングスの「なみだの操」は、レコード売上げ200万枚を超すミリオンヒットと言われており、日本の歌謡界に燦然と輝くド演歌の代表曲です。
昭和40年代に生まれた僕等の世代くらいまでは、大人も子どもも知っていたであろうこの曲。
当時僕は歌詞の意味もわからず、ボーカルの宮路オサムさんをまねて「あなた〜のためェ〜にィ〜」とコブシを回しながら歌っていた、フツウの男の子でした。
今あらためてそのヒットを考えてみると、この歌が流行った時代には一体誰が共感して、どうしてこれほどまでに売れたのか、理由がいまひとつわかりません。
わかることはただ一つ、「これだけ女性が社会で活躍する時代になって、今この歌を新曲で出しても決して200万枚は売れないだろう」ということだけ。
歌謡曲を研究するものとして、この謎は解かない訳にはいきません。
1973年前後にレコードが買えるような年頃だった人たちに、片っ端からこの曲のヒットの理由・当時の印象を聴いてみました。
ところが・・・これがハッキリとした答えが返って来ないのです。
特に女性。
まずこのレコードを買った女性にちっとも出会わない。
この曲の印象を聴いても、「気持ち悪い」とハッキリ嫌悪感を示すか、「なんかテレビでよく出てたからそういうもんだと思ってた」という共感のない返事ばかり。
この曲は「おんな心」を歌っているはずなのに・・・。
そこで、男性へのリサーチをもとにある仮説を立てました。
「なみだの操」を買ったのは、当時の働き盛りのオヤジたちではないか、と。
そこから立ち上ってくるストーリーを、現代に置き換えて想像してみました。
ちょっと長いですが、こんな感じです・・・
〜夜の新橋、会社帰りの上司と部下が立ち寄る、赤提灯の飲み屋街〜
「部長、今日だけは、黙って僕の話を聞いてくださいよ」
「なんだ加藤、まるでいつもは俺がお前の話を全く聞いていないような言い草だな」
「何言ってんすか、僕、部長と飲む時はここ何年も、部長の話とか説教とかずうーっと聴きっぱなしじゃないですか。しかも同じ話をくどくどと。耳にタコができてんすけど。まさか部長、それを自分で気がついていないんじゃ?」
「(コイツ今日はやけに挑発的だな。開き直ってんのか?いつもより強い酒のせいか?)わかったわかった、今日はお前の話をじっくり聞いてやろうじゃないの。」
「お願いしますよ!まったく・・・それで、いきなり家庭の話で何ナンですけどね、最近、子育て疲れのせいかウチの嫁が冷たくて・・・」
「ハイ!じゃあ飲むのはお開き!まだ間に会う時間だから、すぐに家に帰って、嫁のかわりに子どもを寝かしつけてきな。ハイそれで解決!」
「部ぅ〜長ぉう!話を聞いてくぅださいよおぉう!」
「こら、体を揺らすな揺さぶるな!ホッピーがこぼれるだろうが。しょうがないやつだな。それでお前はどうしたいんだ!嫁さんと仲直りしたいのか?それともここで夫婦生活の愚痴をこぼしたいのか?」
「部長、僕の話ちゃんと聞く気ないんでしょ?早くこの話題を終わらせたいって感じがその貧乏ゆすりでミエミエだ!」
「馬鹿やろう!5年前を忘れたか?お前のあの派手な結婚式に出て、高い祝儀を出して、なおかつ新郎側の会社の上司として挨拶までしてやったのは誰だ?おまえのことを俺がどれだけ気にかけてやっているか・・・お前のミスを総務や経理への根回しでどれだけ帳消しにしてきたことか!」
「じゃあちゃんと聞いてくださいよっ!つうか逆に部長に聞きたいんですよ。部長は結婚して何年?」
「なに俺のところ?えーちょっとまてよ・・・(指折り数えて沈黙30秒)はい、22年だ間違いない!」
「部長、結婚して20年以上の先輩としてお聞きしたいんですが、この先どうやったら奥さんとずっと仲良く、うまくやっていけるんすか?ウチは、このままいくとますます夫婦仲が冷えちゃいそうで。結婚したての頃は、あんなに愛し合っていたのに。あの素晴らしい愛はどこへって感じッスよ・・・」
「加藤くんよ、改まっていうのもナンだが夫婦なんてそんなもんだ。たとえ恋愛結婚だったってな、子どもができちまったら恋愛感情がそう何年も続くもんか。加藤、ウチなんてな、寝る部屋も別、洗濯物も別、電話の子機も別、パソコンもメールも別。家に帰っても挨拶もなければ目も合わさない。会話は専ら携帯メール経由、内容は子どものことオンリー。夫婦の愛情なんて、年月が過ぎれば質も量も移り変わるもんなんだよ。永遠の愛なんて、そりゃ宝石屋の商売文句でしかないわな。愛が不安定で心が不安になるから、経年変化しなさそうな高い石ころを欲しがるんじゃないか。」
「はぁ・・・この人、結婚式で挨拶した時と言ってることがまるっきり違う(深いため息)」
「(なんだ、コイツ余計に落ち込んだぞ。折角おれがいい助言してやってるのに)なあ加藤、そんなにメゲるな。こんなときはなあ、歌でも歌うんだ。俺もかつてはそうやって鬱憤を晴らしたもんだ。さァ、場所変えて、歌える店へ行こう!ビバ!ハッスル!」
「えぇぇ・・・なんか気が晴れる予感が全くしないんですけど・・・それで、部長はそんな時はどんな歌を歌ってたんですか?」
「そりゃド演歌に決まっているだろう!だがな裕次郎とかひばりではだめだ、もっと、こう、歌ってて気持ちよくなるようなテンポのいいやつでだな、そうだな・・・あれだ、殿さまキングスとかスカっとするしもう最高だな!なみだの操、いいねえ。オサムちゃん最高!」
「ド演歌って・・・なんスか?殿さま?キング?なんか言葉の意味がダブってないスか?」
「馬鹿ッ!加藤、『殿さまキングス』を日本語に訳してみろ、『殿さまな王たち』になるじゃねえか、男の最上級だぞ。お前の好きなほら、あの何だっけ、ジャイケルマクソンだっけか?あいつも自分で「King of Pop」って名乗ってただろ。簡単に言えばアイツ並みってことだ。キングクリムゾンだとかジプシーキングスとか、それぞれの歌謡ジャンルでキングと名のつく奴ぁ、大物に決まってるんだ。殿さまキングスは、まさに歌謡曲の王道にふさわしいグループだぞ!」
「でも、『なみだの操』って曲名、なんかキングなイメージに合わない気がするんですが・・・」
「かァーっ、わかってないねェ新人類は。何故俺がおまえにこの曲を紹介したと思う?この歌の主人公はなぁ、男に身も心も捧げる健気で可愛そうな女なんだよ。そのか弱い女の一途で純情な恋ごころを、殿さまでキングな男がコブシを回しまくって歌いきる、そんな痛快さをお前に教えてやろうってんだよ。お前も殿さまかキングにでもなったつもりで、嫁さんとのことは棚に上げて歌うんだよ。とにかく、スカッとするぞ!」
「部長、いまiPadで『なみだの操』をネット検索かけて出てきた歌詞を見てるんですけど、『決してお邪魔はしないから、あなたのそばに置いてほしい』とか、『汚れを知らない乙女になりたい』とか『お別れするより死にたい』とか、そんなこという女の人、僕の周辺に全くいないっスよ。部長のいう主人公の女性キャラが、まったく想像できないんですが。うちの部署で言うと誰が近いンスか?」
「馬鹿モン!うちの部署なんかで例えようとするんじゃない!このご時世にそんな女なんているもんか。加藤、まだわからないのか・・・お前は嫁さんがつれないからって、ほかの女と浮気をするぐらいの覚悟はあるのか?んん?」
「えェェ?部長、浮気とか、ちょっと声が大きいッスよ!僕、まだそんなことは・・・」
「だろう?即離婚なんて考えてないだろう!子どもに辛い思いはさせたくないだろうが!」
「部長、声デカイ!興奮し過ぎ!だから僕は離婚とか、言ってないって」
「だ・か・ら!つくり出すんだよ自分の中に!こさえるんだよ理想の女を!せめて歌の中だけでも、自分にかしづいてくれる哀れな女をだ!慈悲をかけたくなるような、なんかこう、あれだ、お前好みの哀れな女。それが男のロマン!それが男のカタルシス。それがここ、サラリーマンの巣窟・新橋にお前がいる理由だ!わかったか?じゃあとにかく次の店へ行こう。まずは俺がオサムちゃんばりのコブシとテカリで殿さまキングスの手本を見せてやるからな。『なみだの操』だけじゃナンだから今日は特別に『けい子のマンボ』も聴かせてやる。加藤腰ぬかすんじゃねえぞ!オヤジ!帰るからおあいそね!ハイよろしくどうぞ!」
「(小声で)あぁー、結局今日も部長のペースでハシゴかよ・・・だからド演歌とか歌謡曲って、嫌いなんだよね・・・」
(想像おわり)
もし当時、このレコードを新曲として買った人がいたら、その買った理由を是非聞かせてほしいです。
殿さまキングスの元ボーカル、宮路オサムさんは今でもソロで活躍されており、今でもご本人の衰えないその歌声でオリジナルの「なみだの操」を聴くことができます。
僕は、テレビで宮路さんのニヤついた?歌い顔を見て育ちましたので、この歌を聴くと条件反射的にニヤつきます。
最近聴いた殿さまキングスのベストなんて、もう電車の中で聴いている間じゅうずっとニヤつきっぱなし。世間的にまずいです。
とくに「けい子のマンボ」は、ラッシュ時、混み合った電車内では決して聴かないよう、それだけはいつも心がけています。
RITO MIURA/三浦鯉登
作曲家・ミュージシャン・昭和歌謡研究家
御堂筋で炸裂!日本語を超えたシンガー「欧陽菲菲」2010.02.16
欧陽菲菲には苦い想い出がある。
採点つきカラオケで「ラブ・イズ・オーヴァー」を歌った時のことである。
思いっきり歌の世界に入り込んで、歌マネもせず、自分なりに歌いきった結果、
メロディを教科書通りに歌わなかったのが災いしてひどい点数が出たのである。
「全くこの機械は歌心というものをわかっていない!」
自分の歌唱力を棚に上げて、カラオケマシンに恥をかかされ憤慨したあの日。
それから10何年、紙ジャケ仕様で再発された彼女のアルバムをじっくり聴き終えて、
光り輝くその歌唱力を再発見した時、僕は遅まきながらやっと気がついたのである。
あのカラオケマシンの採点に、決して間違いはなかったのだ、と。
僕がそうであったように、歌謡曲に親しみのある世代でさえも、欧陽菲菲の歌は
「ラブ・イズ・オーヴァー」「雨の御堂筋」あたりの曲をテレビで「見た」程度と
いう方がきっと多いことだろう。
バラエティー番組で垣間見せる、楽しいキャラクターと台湾なまりの日本語トーク。
その印象に邪魔されて、彼女の歌を本腰を入れて聴く姿勢をこれまで持ち得なかった、
というのが僕の正直なところである。
彼女の歌う日本語には、ネイティブ・スピーカーでないゆえのちょっとした癖がある。
それを面白がって、日本人はよく彼女のマネをした。僕も子どもの頃マネをした記憶が
ある。森進一の「おふくろさん」と同じで、一度モノマネの対象になると、その歌の
メッセージや歌手の本質に鈍感になってしまう。僕がその呪縛から払拭されたのは、
物事をいろいろな側面から見る事ができる、いい歳の大人になってからだ。
欧陽菲菲は出身地、台湾でも人気の歌手だった。(現在においては国民的歌手だ)
日本のプロダクションに見いだされ来日。
1971年のデビュー曲「雨の御堂筋」が大ヒット。その年のレコード大賞新人賞を受賞。
翌年には紅白歌合戦に出場。何と、紅白史上初めて出場した「外国人歌手」なのだ。
今でこそ日本人より演歌がうまいジェロが存在するが、当時、ちゃんとした日本語で
ここまで歌謡曲を歌える外国人歌手などいなかったのである。少々発音に癖があろうと、
そこに文句をつける筋合いがあるだろうか。
しかも台湾から海を渡ってきた歌手に「こぬか雨降る御堂筋」って・・・
もし自分が台湾に歌手として連れてこられて、台湾の音楽プロデューサーに
「高雄の六合二路に雨が降ってるのを想像しながら情感込めて台湾語で台湾歌謡を歌え」
なんて言われたら、果敢に挑戦するどころか、こぬか雨降る台北で傘もささずに泣き濡れて、
財団法人交流協会の事務所(=日本大使館)に身を寄せるであろう。
それくらいアウェーだ。この上ない逆境だ。
しかし菲菲は台湾魂でやり遂げた。異国の心を歌いきった。そして大ヒット。
作曲がベンチャーズでありながら何故か大阪情緒あふれる、湿度の高いご当地ソングが
70年代歌謡を代表する大流行歌として今に残るまでには、日本の農家に嫁いだ外国人妻に
匹敵するような、そんな苦労克服物語が隠されている。
と想像する。
本人にも関係者にも聞いてないからあくまで想像よ。
さあ本題、今回とりあげるのはそんな欧陽菲菲の大ヒットデビュー曲が1曲目に収録された
アルバム「雨の御堂筋」。
ビートルズがそうであったように、まだ持ち歌の少ない新人歌手のアルバムらしく、
当時歌謡曲として流行った他の歌手のヒット曲、そして洋楽の当時のヒット曲が、彼女の歌で
カバーされている。
尾崎紀世彦、朝丘雪路、布施明、アダモ、ダスティー・スプリングフィールド、
ジョー・ダッサン、エンゲルトベルト・フンパーデンク・・・
ヒットして間もない、これら素晴らしい歌手たちの名曲を、デビュー間もない欧陽菲菲が
歌う。本人の母国語一切なし。日本語と英語のハンディを背負って歌う。
それがあなた、聴いたらもう、ハンディとか全て吹っ飛ぶくらい、歌がうまいんですよ。
日本の歌謡曲って、捨てられただのあなたを待つのだの、その世界観が「か弱い女性目線」で
描かれたものが多く、歌詞だけ追ってるとジトーっと湿気を感じるのですが、彼女の歌声には
その世界観をパワフルな乾燥機で一気に乾かしてくれるくらいの力があります。
だから今聴いても新鮮。歌謡曲に馴染みがなくてもジャンルを超えて歌が届く。
いや、こりゃもう放っておけないわ。台湾の人気だけで終わらせるのが非常に惜しい歌手だ。
無理な日本語になっても、この歌唱力を日本人にも紹介したい、と当時のプロデューサが
思うのも無理はないですね。しかも、日本語の発音も9割がたマスターしていて、
聴いてて違和感を感じないですよ。もうカバーした原曲を凌駕するくらいの圧倒的な歌唱力。
近年、懐メロ番組でお見受けする、往年のティナ・ターナーばりのロックシンガーと化した
彼女の姿もセクシーで素敵ですが、まずは、デビュー当時のこの衝撃のアルバムを
聴いてほしい。まさに台湾の至宝、いやいや日本の歌謡曲界の至宝?
そんなこともうどっちでも良くなる、素晴らしい歌手の記録的名盤です。
ちなみに、ボーナストラックには、その後の彼女のヒット曲も収録されていて、
さながらベスト盤としても楽しめるお得な内容となってます。
RITO MIURA/三浦鯉登
作曲家・ミュージシャン・昭和歌謡研究家
ペッパー警部の憂鬱 「ピンク・レディー」2009.12.28
ピンク・レディーのデビュー曲として「ペッパー警部」が世に出たのは1976年。
テレビの歌番組の影響が今よりずっと大きかった当時の小学生なら、
きっと一度は口ずさんだり振り付けをマネしたんじゃなかろうか。
その頃の僕もやはり、テレビで流行っていて、踊りが面白くて、
歌が覚えやすい曲にすぐさま食らいつく低学年の小学生だった。
それから30年以上経った。僕は大人になり、時代は移り変わり、
ヒット曲は30年前のヒット曲になった。
あらためて今、この曲を聴くと、小学校低学年の児童が受ける印象とは、
想像力のかきたてられかたが違ってくる。
ある娘が言うのである。いい年頃の娘である。
警察官の中でも20人に1人しかいない、そんな階級の警部に向かって言うのである。
「私たちこれからいいところなんだから、邪魔しないでよ」
都会の暮れかかる公園だろうか。娘は男から甘い言葉を注射のように射され、
連発銃のように「愛している」という台詞を打ち込まれているのだ。
そんな状況を、通りかかった警部は「貞節の危機」ととらえた。
視界に入った「乙女のピンチ」を、警部にもなれば黙って見過ごす訳にもいかないのだ。
しかし娘は、声をかけたそんな警部の親心を「無粋」と突っぱねたのである。
「これからいいところなのに」なんて、娘は言うのである。
「よろしくやっている」とか「しっぽりやっている」とか言われたも同然だ。小娘に。
「この、ペッパー警部!」とまで言い捨てられた、警部の心中はいかばかりであったか。
(ペ?ペッパー警部?ペッパー警部って・・・「若いお巡りさん」ならまだしも、
きちんと手帳を呈示し、やんごとなき身分まで明かしたこの私にむかってペッパー・・・)
想像できる!
小学校低学年の児童では到底想像できまいて!
僕はこの、胡椒呼ばわりされた警部の気持ちになって考えることができるほど、歳をとったのだ!
生まれてこのかた、警部という肩書きの警察官にはお目にかかったことはないが!
さて、警部は責任ある一警察官としてこれからこの状況をどう対処するのか、
この跳ねっ返りな娘の貞節はその後どうなったか、というところで歌は終わってしまう。
「いいところ」でエンディングなのである。
話の佳境まで踊り続けたピンク・レディーは突然「ペッパー警部よ!」とポーズを決め、
笑顔をつくって話を締めてしまうのだ。
こんなことがあっていいものだろうか。こんな歌があっていいのか。
大体からして名前が「ピンク・レディー」、直訳で「桃色婦人」とは何事か。
「モーニング娘。」なんて奇妙な名のグループが跋扈する平成の御代ならともかく、
時代は昭和、今から30年以上も昔に、この二人組、そしてこの曲。
この企画を考え、世に送り出した大人は、一体何を考えていたのか。
だが立場を逆転し、この曲の企画制作者(阿久悠や都倉俊一)になったつもりで
現在の歳の自分が、あの時代に新人歌手「ピンク・レディー」を世に送り出す事を考えると、
途端にゾクゾクする。ワクワクする。
レコード会社やプロダクションにかなりの投資をさせた、この大いなる賭けでもある
「大人の遊び」は、果たして大衆に受け入れられるだろうか?誹られるだろうか?
ピンク・レディーは、大人になった僕にも想像の楽しみを与えてくれる、歌謡界の宝石箱だ。
RITO MIURA/三浦鯉登
作曲家・ミュージシャン・昭和歌謡研究家
歌謡曲の境界線2009.11.16
「歌謡曲って、実はとっても奥が深い・・・気がする」
僕がそう感じて、あらためて歌謡曲を聴きだすようになったのは、
20代も後半になってからのことだ。
子どもの頃に流行っていたヒット曲を聴き直すことに始まり、
自分が生まれた時代をさらにさかのぼって、レコードに吹き込まれた
音源が今CDで聴ける限界の昭和初期まで聴き及んでしまった。
ラジオやレコードから大衆に向けた商業音楽が日本で流れはじめたのは
年号が昭和に変わってからのこと。だが平成のヒット曲まで含めると、
歌謡曲の歴史や定義には人それぞれの解釈があることだろう。
僕が「この曲は歌謡曲」と判断するときの指針は、テレビ東京で毎年、
盆暮れに長時間放送される歌番組、「夏祭り&年忘れにっぽんの歌」だ。
この番組で歌われた曲や、出演した歌手の持ち歌であったりすれば、
それは僕のなかで歌謡曲となる。だからマツケンサンバは歌謡曲だし、
将来B’zがこの番組に出れば、出た時点でB’zの曲は全て歌謡曲となる。
趣味で音楽を聴いたり演奏したりする人々との、こんなやりとりで
歌謡曲を測るのも、僕にとっては面白い。
「歌謡曲は好きですか?」
「いや、歌謡曲は嫌い」
「たとえばどんな歌手のどんな曲?」
嫌いと答えた人から具体的に出てきた曲こそ、ド真ん中の歌謡曲だ。
クラシック、ジャズ、ロック、自分の聴くジャンルにこだわりを持って
いる音楽愛好家、ミュージシャンに、なぜか歌謡曲は敬遠される。
フォークやニューミュージックの世界でさえも、そのブームのさなかには
アーティストやリスナーから一線を引かれた音楽、それが歌謡曲だ。
ところが歌謡曲は、時の流れとともに、それらを「懐メロ」の名のもとに
ジャンルを超えて自分のなかに取り込んでいく。
どこからどこまでが歌謡曲か、
いつからいつまでが歌謡曲か、
現時点での歌謡曲の線引きなど、意味のないことかもしれない。
だけど、僕は歌謡曲が好きだ。それだけは間違いない。
ある時期多くの日本人の心をつかんで一世を風靡した歌、
時代をこえて日本人に歌い継がれていく歌、
時代に取り残されて存在価値をなくし忘れ去られていく歌。
そんな歌たちへの興味が愛着に変わり、その魅力を言葉にしてみるつもりが
とんだ前置きになってしまった。
今度からはひとつずつ歌手や曲を選んで、僕なりの歌謡曲の楽しみかたを
紹介してみたいと思います。
最後に、歌謡曲の第一人者であり、僕と違って歌謡曲について明確な基準を
持っている作詞家・阿久悠氏の著書を、今回は導入がわりにご紹介します。
RITO MIURA/三浦鯉登
作曲家・ミュージシャン・昭和歌謡研究家