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Nuggets: Original Artyfacts from the First Psychedelic Era 1965-19682009.07.24

前回のイギ—ポップ&ストゥージズで、「彼らにあのような音を作らせたのは1969年・・」という言い方をしました。

音楽、(映画、文学なども・・)は、もちろん作者の世界観、価値観、人間性、思想、感性、問題意識などの「主体」がそれを表現しているわけですが、同時にその主体は、それが 存在している時代背景や、社会環境に大きく作用されていることは言うまでもないでしょう。

そういう時代性を超えた普遍的な作品が本物だという考え方が存在しますし、そのことはひとつの真実でしょう。しかし私はその「主体」が社会環境のるつぼの中に投げ込まれ 激しい波に飲み込まれ、ぐるぐる回ってる時の、恐怖、焦り、興奮、わけのわからない良い感じ、俺だけは解ってるぜ、あいつらみんな馬鹿、今日は世界征服したぞっていう感覚、高揚感、逆に、すんません、降参です、最悪です、もう死んじまいたいっていう情けなさ、徒労感や絶望感などなどの、思い込み、粋がり、前のめり、駄々っ子、かっこつけ、などの真剣なおっちょこちょい、も大好きです。

「Nnuggets」つまり「山師」とタイトルされたこのCD-BOXは、元々1972年に後のパティスミスのバンドのギタリスト、レニー・ケイが編集した1965年から1968年の3年間にリリースされたアメリカのティーンエイジャーのバンドたちのシングル盤のコンピレーションアルバムをもとに、CD4枚組に拡大して再発したものです。日本ではもちろん、一般的には全く無名の、限りなく素人に近いバンドばかりです。

ここではアメリカ中から集められた地方の「おれは最高だぜ」バンドの、「世界征服できるぞ」という夢というか革命幻想に満ち溢れたいい音があふれています。彼らは「Garage band」–親父の車庫で練習してたからとか「Punk」-馬鹿、くず、などと呼ばれていました。内容は、つまらない学校、うるさい親、言うことを聞かない彼女などへの不満を叫んでるものから、「紫と緑色の声が木々の間をすべり抜け、窓の隙間をこじ開け、おれの頭に入りこむ!!」といったサイケデリックな幻想まで、まあとにかく様々です。音楽はストーンズ、フー、ヤードバーズなどのイギリスのビートグループまんまから、そこにインド風の味付け、あるいはフォークのオーガニックな感じなど、これもまた多種多様。ティーンエイジャーたちの必死の自己表現は、自己満足、自己肥大の産物とも言えるし、でもそこに必死で自分の存在証明をしたいという切ない想いも感じたりもします。

実はこのオリジナルのNuggetsが1972年に発売されてから、今に至るまで、こういったティーンエイジャーのバンドのレコードの発掘作業は続いており、それはアメリカ、イギリスはもちろん、最近ではボリビア、ペルー、ウルグアイからカンボジアなどの辺境(失礼)に至るまで、世界中に広がっています。そのアルバム数はアナログ、CD合わせると少なくとも1000種類以上は出ているでしょう。私はそのうち9割くらいは持ってると思いますが、とにかく万華鏡、すばらしいです。

聞けば聞くほど結局ロックって、これ、いわゆる「初期衝動」なんだと思います。

世界中でこのいわば「バンドブーム」が到来した1960年代後半、その時代背景については次回。

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HIKARU MACHIDA/町田光
NFL JAPAN 代表取締役社長 立命館大学客員教授 早稲田大学講師

淫力魔人(ロー・パワー)2009.07.13

今回も前回に続き、イギ―ポップです。私のグルであり、最強のアイドルです。
イギーはもう40年のキャリアを持ち、今も現役です。それもストーンズのようなお客様の期待にこたえる「芸人」で名なく、表現したいことがあふれ、新しいことにチャレンジし続ける、まさに「転がり続ける石、というか岩」です。
ですからはっきりいって失敗作、愚作もあります。でもだからどうだってんだ、って感じです。
今を、リアルタイムで生きる彼の手紙というかドキュメントです。「作品」じゃねーぞ。

デトロイトで生まれたイギーのキャリアは1967年、Stoogesから本格的にスタート、3枚のアルバムを出しました。前回紹介の「Fun House」はその2枚目、今回のは3枚目です。どれも借金しても買って聞いてください。自分と世界が変わって見えて来る、すごい音です。

この3枚のレコードには、父親が反社会的インテリであったため、トレーラーハウスで育てられた欲求不満とコンプレックス、そしてナイーブなナルシズムの塊、ジェームス・オスターバーグ(イギーの本名)と、彼に「薬がほしかったら俺のバックバンドやれ」とそそのかされた、デトロイトの街をふらつく以外何もすることがなかった、薬漬けの不良33、そしてどこにも居場所がないこの4人の子供に、このような音を出させざるを得なかった「1969〜1972年という時代」そして「アメリカ」、これらがギザギザに切り裂かれ、その傷口から流れ出す赤と黒の入り混じった血の生臭い匂いが満ち溢れています。

しかも不思議なのは、そこにはぬかるみに足を取られるようなぐちゃぐちゃ、どろどろでなくそのひどさを楽しむような、笑い続けるような感じがあり、その冷静さは「ポップ」とも言える感覚を持っているんです。多分それはイギーの自己批評のセンスであり、そのことが麻薬中毒などの苦境を何度も経験しながら、今まで変わることなく活躍して来ることができた原動力なのでしょう。

考えてみるとこの感じはSex Pistolsの「Never Mind the Bollocks」に共通するものがあります。(このアルバムはもっと「ポップ」ですがー最高です)それがイギ―ポップを、そしてこのstoogesの3枚のアルバムを「パンクの元祖」と多くの人が呼ぶ
理由なんだと思います。60年代後半のドロドロロックの世界観を持ちながら、つきぬけたポップさを持つStooges,最高です。

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HIKARU MACHIDA/町田光
NFL JAPAN 代表取締役社長 立命館大学客員教授 早稲田大学講師

イギ―ポップ&ストゥージズ「ファンハウス」2009.07.07

私の名刺代わりに、一応の専門分野であるスポーツビジネスのことを知ってもらうのが良いのではと思い、これまでスポーツビジネスの社会的価値について書いてみました。
今日はこれに関連して、スポーツとアートの作り出す「感動」について、異なった視点から考えてみます。

実は私はスポーツの作り出す開放感、感動、一体感などに、ある相対的な、やや冷静な認識と感覚を持っています。そしてそれは私自身が愛するロック、映画、などのそれに対しても同じです。ロックフェスティバルで踊りまくり、また映画館の出口で「感動しました!!!」と興奮してる人々。こういう姿になんとも言えない、「これでいいのか?」といういやーな感じを持ってしまうのです。
私自身ロックバンド経験者として、数十回のライブで観客の熱狂を作り出す喜びを経験し、一方で観衆として、イギ―ポップ(最高です!!)の来日コンサートにおいてステージ上に駆け上がるという美しい暴挙を働いた身として、その熱狂、感動は今も変わることはありません。

しかしそれでもそれらの熱狂について「それは単純にいうと脱自の状態、他者との同化の中で生じている、理性を麻痺させるファシズム的熱狂の要素がなくはない」(多木 浩二「スポーツを考える」)という様な冷めた認識を持つことは、絶対にに必要なことではないでしょうか。

もし本当にスポーツやアートを愛し続け、その愛するものの世界観や価値観を共有したいと思い、自分の人生や日常の生活を重ね合わせ、少しでもその高みへ近づきたいと願うならば・・・。
またその社会的な有用性を信じ、その継続や発展に関わろうとするならば。

それは批評性を持つということに他なりません。批評性を持つことは決してその対象への純粋な愛情を失うことではなく、むしろそれを強く持ち続ける力となる、ということは私の人生が証明しています、と言ってしまいます。(こういうことは年取ったやつにだけ言えるんだ、と今気付きました)

「心はいつまでもロック少年」という言葉のうす汚なさ、かっこ悪さ、死んでほしい感じ、解ってない感じ。
感動を、熱狂を、思い出にするな!!。しないためには、その心の奥をのぞき続けるしかないのです。

イギ―ポップ&ストゥージズ「ファンハウス」
ロックのすべてがあり、他の何もないレコード

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HIKARU MACHIDA/町田光
NFL JAPAN 代表取締役社長 立命館大学客員教授 早稲田大学講師

スポーツビジネスにおける「ビジネス」とは何か その32009.07.04

個々人の価値観が尊重され、自由であることが、メンタリティにおいても、また社会の構造や制度においても基本となる成熟社会が、同時に人々の存在がバラバラになり「自己責任」という言葉に象徴される孤独と疎外の高ストレス社会である、ということは、考えてみれば当たり前のことでしょう。

で、スポーツは、このような社会の、どの問題をどのように解決できるのでしょうか。このことはすでに以下の通り、第2回「スポーツとは何か」で書いております。

「人々はスポーツに触れることで人間の本質である動物性と知性の両方をその根底において刺激され、情動が活性化し、非日常の快楽=感動を得ることができる。このいわば社会的な記号を脱ぎ捨てた裸の人間(たち)をゆり動かす感動は、男女年齢、国籍、職業などを飛び越してだれにも有効であり、それにより『一体感』『つながっている感じ』などの『共有感覚』を醸成する。」

これで皆さんも理屈においても、また感覚においてもご理解いただけたと思います。

つまりスポーツは、自立した個人が互いに理解、尊重しながら共生する、孤独と不安な社会を生きてゆく上で、心と身体の解放感を通じた,安心感、生きている実感、自信、他者とのつながり、一体感などの「生に対する肯定感を得る社会装置」としての役割を果たすことができるのです。そしてそこからは、互いを知り、理解しようとするコミュニケーションが生まれ、ひいてはスポーツを通じた新たなスポーツコミュニティを創造する契機になりうると思います。

スポーツをこのように捉えてみたとき、現在のスポーツビジネスが「競技を競技ファンに見せる」ことにとどまっていることが、日本のスポーツを、そしてスポーツビジネスを発展させられない根本と思います。しかし明らかに日本社会はスポーツをより多くの人が必要とする方向に向かっています。
そしてそれは音楽や映画などのアートやエンターテイメント全てに言えるでしょう。

いかがでしょうか。じゃ具体的にどうするんだ・・というお話は、またいつか、ということで。
スポーツビジネスの話はこれまで。次回は私個人のスポーツと社会観について、と思っています。

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HIKARU MACHIDA/町田光
NFL JAPAN 代表取締役社長 立命館大学客員教授 早稲田大学講師

スポーツビジネスにおける「ビジネス」とは何か その22009.07.01

スポーツが「心や精神の維持装置」、「新しい生活必需品」となりうる社会背景を考えてみます。

前回書いたように現在の日本は「すでに物質的豊かさを達成してしまった社会」にあります。
ということができるでしょう。人類の発展の歴史とは自由を獲得する苦闘の歴史である・・誰か(忘れた)人の言葉

しかしこれは言ってみれば「一人ひとりがバラバラになる時代」です。日本社会をこれまで支えていた共同体のメンタリティや構造が崩壊し、一つの国、地域社会、会社、職場、いや家族ですら「隣のやつが何考えてるか分かんない」状態が常態化(しゃれではない)します。
それは一言でいえば「孤独」の社会です。日本という社会にとって初体験です。

更にいま日本はは「グローバライゼーション」「高度情報化社会」「高度資本主義社会」に同時に突入しています。これはそれぞれ「自分のアイデンティテーが常に問われる」「自分も他の人も、ただの情報、記号化しちゃうむなしさ」「自己責任による勝ち組、負け組の恐怖」社会です。自分と社会との関係が見えにくく(疎外感)、自分自身の存在の価値が実感できない高ストレス社会です。

最近、いろいろなところで「共生」という言葉が出てきます。鳩山由紀夫も言っているし、福田赳夫も言ってました。文科省の教育指針も「多様な個の尊重と共生」です。まんまですね。

これは「価値の異なる人、それぞれがお互いを理解し、尊重し、なんとか共に生きる方法を造り出そう」という意味でしょう。価値観や生き方が異なる人間であっても、理解することはできるだろう。
いや理解し尊重しなければいけないのです。そうすることだけがたぶん「孤独」を感じても、互いが孤立し疎外され、本当にバラバラに解体してしまう社会にならない唯一の方法なのです。

だから「共生」の思想とそれを可能にする、あるいは「共生している状況を維持する」方法が必要なんです。
それは社会システム、政治制度、経済構造、教育、コミュニケーション、などなどありとありあらゆる事が含まれます。

つづく。あと1回。

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HIKARU MACHIDA/町田光
NFL JAPAN 代表取締役社長 立命館大学客員教授 早稲田大学講師